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日本の聖と賤 古代史を読む


2013年2月21日

多(太、大)氏→ハダ氏→秦(ハタ、シン)氏。同属に三輪、賀茂(鴨)
飛鳥昭雄研究室 http://da-vinci.seesaa.net/

多蔣敷(おおのこもしき)。 妹が百済の王子扶余豊璋の妻。

→多 品治
(おおのほんじ、おおのほむじ)生年不詳 - 持統天皇10年 (696年) 8月?)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「おほのほむぢ」。姓ははじめ臣、後に朝臣。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側で戦い、莿萩野を守って敵を撃退した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%93%81%E6%B2%BB

→太 安万侶
(おおの やすまろ、生年不詳 - 養老7年7月6日[1](723年8月11日[2]))は、奈良時代の文官。名は安萬侶[3]安麻呂[4]とも記される。姓は朝臣。多品治の子とする後世の系図がある[5]。官位は民部卿従四位下[6]。贈従三位。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%89%E4%B8%87%E4%BE%B6

百済復興運動 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信黒歯常之などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇筑紫国朝倉宮に遷った。

白村江の戦い

帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。

これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。


小治田安萬侶の墓(おはりだのやすまろのはか)は、奈良県都祁村甲岡(現在は奈良市都祁甲岡町)で発見された奈良時代の官僚である小治田朝臣安萬侶の火葬墓で、国の史跡になっている(1969年11月29日指定)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%BB%E7%94%B0%E5%AE%89%E8%90%AC%E4%BE%B6%E3%81%AE%E5%A2%93

なお、同じく墓誌が発見されている太安万侶は、名前が同一であるが別人である。同時代の文官ということもあって、よく混同される。

莿萩(たら)→多羅、多良


百人一首 2番目の持統天皇の夫 そして・・・安八郡  http://uihiko-yamahiko.asablo.jp/blog/2011/04/29/5830914
村国 男依(むらくに の おより、生年不明 - 天武天皇5年(676年)7月)は、日本の飛鳥時代の人物である。名は雄依、小依とも書く。姓は連。子に村国志我麻呂がいる。冠位は贈外小紫。
672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に属して戦い、近江方面の諸将の筆頭として連戦連勝し、最大の功を立てた。

 壬申の乱での活躍
 男依は舎人として大海人皇子に仕えたと考えられている。壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、男依は吉野にいた皇子のそばにいた。皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、村国連男依は和珥部君手、身毛広と三人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡(安八郡)の湯沐令多品治に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。男依は駅馬でとって返し、26日に伊勢国朝明郡の郡家のそばで大海人皇子に成功を報じた。これにより近江京にいた大友皇子は東国との連絡を遮断され、東国の兵力は大海人皇子の手に帰すことになった。


湯沐令(ゆのうながし)は、日本の飛鳥時代に置かれた官職で、皇族の領地である湯沐邑を管理した。
湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)は、古代中国と、飛鳥時代から平安時代までの日本で、一部の皇族に与えられた領地である。国と時代により実態が大きく異なる。

後の律令制の下での食封の規模をあてはめれば、湯沐邑は安八磨郡の一部ではなく、郡全体にあたるのではないかと考えられ、その郡の範囲は後の池田郡を含み、さらに広かった可能性もある。田中足麻呂については、多品治と同じく安八磨郡の湯沐邑の令だったとする説と、伊勢国に別の湯沐邑があったとする説がある。

後の律令制の湯沐邑は収入源でしかないが、この頃の湯沐邑と皇子との関係には密接なものがあったと推察される。

安八郡 歴史 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%85%AB%E9%83%A1
  『日本書紀』壬申紀に、安八磨郡(あはちまのこおり)として現れる。この時期の評を書紀は郡に書き改めているので、当時の呼び名は安八磨評である。672年の安八磨郡には大海人皇子(後の天武天皇)の湯沐令として多品治がおり、郡全体が大海人皇子の湯沐邑だったと考えられる。壬申の乱では皇子のために真っ先に兵を挙げた。

「あんぱちぐん」と呼ばれるようになったのは明治以降といわれている。明治以降、その大半は大垣市、一部は揖斐郡や海津郡(現・海津市)となり、現存する安八郡はわずかである。





2013年2月18日

私のニセモノに注意@tokaiama

古代イスラエルには`アシラ'信仰と言うのが有った。これはアッシリアから来た異教信仰で女神アシラを崇拝するもので、そのシンボルは柱であった blog.goo.ne.jp/n_ishii517/e/5 アシラ信仰がインドに渡り阿修羅となった blog.goo.ne.jp/efraym/e/57c77

倭国、大和国とヘブライ王国 
諏訪大社・御柱祭のイスラエル起源論
平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図 http://blog.goo.ne.jp/efraym/e/57c77591216b7c1991fd396a23e408ad
阿修羅の時代 2009-04-10 22:55:57 http://blog.goo.ne.jp/efraym/e/57c77591216b7c1991fd396a23e408ad
 阿修羅は、仏教を守護する八部衆の1人として数えられますが、ヒンドゥー教では帝釈天(たいしゃくてん=インドラ)に対立する戦いの神で、ここから鬼神や邪神というイメージが定着しました。征服された神が征服者の守護神となるパターンから、仏教では守護神となったのです。でも、阿修羅の語源から見ると、元々はオリエントのアシラ神であったことが分かります。

 旧約聖書で異端の神とされるアシラですが、日本の神道で神の象徴とされる柱の中に組み込まれています。「柱=H+Ashira」なのですが、Hを発音しない言語ではハシラがアシラになります。また、頭(Kashira)にもアシラが含まれていますね。ここから、アシラは本来、イスラエル(日本人)にとって悪い神ではなかったと分かります。木や石に刻まれ、偶像崇拝をされるようになってから忌み嫌われ出したのです。これがオリエントからインドに伝わり、信仰の中心から邪神へと格下げされて行きます。
私のニセモノに注意@tokaiama

御柱祭のアシラ神の意味は女陰(諏訪神社)に収める男根(柱)ということらしい。天地和合の原理、山は女、海は男、それぞれに和合がある。マタギ信仰も同じ。オコゼの干物を山神様にチラリと見せる。高知では女陰を海神にチラリと見せる。和合させて荒ぶる神を鎮めるという世界共通の発想だね

私のニセモノに注意@tokaiama

@doodoromap これは銅鐸の原型ですね 銅鐸も楽器なんです

古代朝鮮で南インド方面から来た人文化と合流してから、日本へ来た? 南インドの楽器福岡県スダレ遺跡シリア出土の似てる壷

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@appon75 久礼の漁師の妻達が不漁になると船で下着を脱いで見せるというのがマンナオシというとかは、たぶん土佐の一本釣りが作ったのでしょうが、この本来の意味は海中に包丁などを落としたとき海神が嫌うので岡で謝罪することをいうそうですね。でも男の海神に見せて鎮めるというのは楽しい

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守屋山の脇の杖突峠を年に数十回は通過する。この山は諏訪神社の御神体で、ちょうど三輪神社と同じ山神を祭っている。諏訪湖は中央構造線とフォッサマグナの接点で激しい地殻変動があり大噴火や村落全滅もあった。荒ぶる守屋の女神に男根柱を捧げて鎮めるのは分かりやすい。すべて旧約聖書なのだ


2013年2月13~14日

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@F3Tw 李王家は初代が女真族と言われますが、李という本貫は唐が朝鮮に持ち込んだ漢族氏姓です。民族的には女真族末裔も当然いますが、オロッコ系ツングースも多い。狩猟の好きな残酷な民族でエベンキとも言われます。渥美清やダニエルキムがそうです lib5.store.yahoo.co.jp/lib/artis/s241

私のニセモノに注意@tokaiama

@tdomon 北へ向かった理由とは何だっただろう?それまでの土地に住めなくなったことだ。十津川水害で移住したり、戦争で会津藩士が余市に移住したりだが、多くは倫理的な問題だった。人は罪を犯すと大陽に背を向けて北に向かうのだ。過疎の田舎に移住する場合、決して自然豊が理由ではない

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@naoyafujiwara 卑弥呼の本当の墓は柳川市役所の真下にある とオレは言ってきた 47news.jp/CN/201302/CN20


共同/ “卑弥呼の墓”調査を許可 宮内庁、研究者団体に 奈良県桜井市の箸墓古墳

 宮内庁は13日、邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)と、後継者壱与(台与とも)の墓説がある西殿塚古墳(同県天理市)について、日本考古学協会など考古・歴史学系の15の研究者団体に立ち入り調査を許可したと発表した。調査は20日に実施される。
 両古墳は最古段階の巨大前方後円墳で、墳丘の詳しい形態など不明な点が多い。調査は墳丘裾部を歩いて見るだけで、発掘や遺物の採集はできないが、いずれも著名な古墳だけに研究者らの“観察眼”に注目が集まりそうだ。2013/02/13 20:14
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@hyoudouhajime @HayakawaYukio 資本主義の要求によって大家族共同体が破壊され人々孤立した小家族に押し込められた。資本主義(利己主義)経済の帰結である原発事故によって人々は再び大家族と利他主義を取り戻す。というのが私の見解です。人は大家族で生きるものです

私のニセモノに注意@tokaiama

卑弥呼の墓が箸墓古墳という説は疑問。民俗的考察に合致しない。古代の国は交易通路に沿って形成される。内陸道に未整備な状態では必ず海路が利用され沿岸沿に展開。食料も稲作と貝塚の遠浅沿岸域から得た。内陸部には大人数食料は少ない。卑弥呼墓は有明海や大阪湾など大干潟周辺にあるべきだ

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古代人の生活拠点は、現代にあっても最高の生活条件である。平坦地が多く、食料が豊か。良い水もあり、苛酷な気象が少ない。この意味で本当の遺跡は大都市に埋もれてしまってる。最高立地である役所や城跡にこそ本当の古代遺跡が隠されてると見当すべき。弥生人は柳川に上陸、柳川市役所こそ原点のはず

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都市は平安、長岡、平城京のように転々とすることは少なく、一度活気が起これば継続的に改良されながら利用されるものだ。各地の大都市は(埋立地を除き)古代にあっても改良が重なったもっとも便利な土地であった。そこは生活の至便地域なのだ。内陸には大河川に沿って発展した。河川は海岸の延長

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@sudokaraage 卑弥呼は蘇州由来の弥生人末裔ですが奈良県は秦氏と混在した場所と考えます。3世紀までは間違いなく弥生人倭王権ですが、その後、蘇我氏ら秦氏末裔が侵入、王権を乗っ取られたと考えています。方墳については騎馬民族のものであり、卑弥呼墓は円墳でなければなりません。


2013年2月12日

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私が朝鮮人というとき、天皇家が4世紀に百済から来たと日本書紀にも書かれてるし、日本の支配階級の大半が源平藤橘の子孫で朝鮮系であるし、トヨタの張会長は秀吉時代の朝鮮陶工子孫だし、大久保・高杉ら維新勢力の大半も朝鮮子孫だし、金田も張本も大山倍達も都はるみもひばりも朝鮮系だしということ

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日本の権力者、支配者の大半が朝鮮系です。武家の子孫は、すなわち百済由来の騎馬民族子孫です。袴は騎馬ズボンなのだから。実は朝鮮人差別を作ったのも朝鮮系の人たちそのものです。百済には白丁という無官階級があり被差別階層だった。それを秦氏が日本に持ち込んで朝鮮由来の部落差別を作り出した

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日本の未解放部落は大半が近畿周辺にある。理由は、朝鮮由来の秦氏が弥生人居住地域に侵出したとき、先住民を奴隷、被差別階級にしたせいです。自分たちを両班良民とし先住民を白丁(部落民)とした。秦氏のいた福井では先住民から激しい戦いが起きて「民の持ちたる国」となった。これが北陸真宗王国

私のニセモノに注意@tokaiama

秦氏は百済から渡来したとき、人の少ない山陰北陸に展開した。当時、畿内山陽方面は弥生人の王国、倭だった。だから「一所懸命地」を求めて東山道から東国に旅立った。坂東武者がそれです。関東に一大拠点を築き、一関藤原氏まで侵出した。関東住民の大半が秦氏の子孫です。彼らは戦争大好き族だった

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私は秦氏を調べていて、ある事実に気づいた。それは秦氏の展開先に原発があるということだ。「一所懸命思想」を持ち、城(丸)を構築することが彼らの価値だった。虚構に生きる民族なのだ。人を畏れさせるコケオドシが好きでたまらない。それが現代に至って原発になった。彼らは壮大、尊大が好きなんだ

私のニセモノに注意@tokaiama

秦氏最大の拠点は若狭だ。そして東国に向かった。行き着いた先々に原発がある。薩摩川内の島津氏も秦氏直系だ。福島も秦氏だ。会津藩が解体されて向かった先は六ヶ所村と泊だった。秦氏の行くところ原子力施設があるのは決して偶然ではない。その子孫達も尊大な虚構が大好きだったのだ。

私のニセモノに注意@tokaiama

一所懸命と本貫(本願)という思想は朝鮮の思想である ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80 朝鮮では今でも系図を極度に信奉する。本貫氏族をアイデンティティとして信仰するのだ。その象徴として城と権力がある。天皇制も秦氏の作り出した虚構。秦氏が朝鮮系氏族は日本書紀に証明されてる

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@doodoromap 秦氏のハタには、はるかに重大な意味がある。八幡とはヤハウェを意味するヘブライ語との説もあり、秦氏の出自を辿ると秦以前に弓月国とされる。つまり中央アジアシルクロードの要衝で、イスラエルを追われた「失われた十支族」の国だ。天皇は核心のエフライム族であると

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秦氏の土地であるかを見分けるには ①家が城のように壮大 ②道が矢玉避けで曲がりくねってる ③被差別地域がある ④男系社会で女性の地位が低い ⑤格 式や見栄の好きな男が多い ⑥競争が好きな人が多い ⑦新生児蒙古斑が強い ⑧一重瞼乾燥耳垢 ⑨大柄ですらっと背が高い人が多い などです

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弥生人レプチャの土地かを見分けるには ①寺が多い ②小さな住家が混み合っている ③共同施設が多い ④女性の地位が高く強い ⑤実質を好み、壮大さや格式を嫌う人が多い ⑥小柄な人が多い ⑦目が大きい ⑧素朴で人なつっこく親切である ⑨牛肉豚肉より鶏肉卵を好む人が多い などです

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@tdomon 北へ向かった理由とは何だっただろう?それまでの土地に住めなくなったことだ。十津川水害で移住したり、戦争で会津藩士が余市に移住したりだが、多くは倫理的な問題だった。人は罪を犯すと大陽に背を向けて北に向かうのだ。過疎の田舎に移住する場合、決して自然豊が理由ではない


2013年2月11日

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@tomatsuo 「わが国はこれまで一度として国家が断絶することもなく一系の天皇を戴きながら連綿と継承されてきた世界でもまれな国」→どうして、こんなウソを平気でつけるんだろう?明治天皇はニセモノだった。北朝孝明が突如、南朝祐宮に変わり、朝敵だった楠木正成像が皇居前に建った

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天皇家の「万世一系」の真っ赤なウソを真に受けているみなさん、この人の言ってることは全部真実です youtube.com/playlist?list=

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歴史を本当に学んできた研究者で「天皇家が万世一系」という凄まじいウソを信じてる人は皆無のはずです。誰かいますか? 宮脇淳子のように知っていながら自分の価値観に都合の悪い真実を隠蔽している研究者はたくさんいます 今の天皇家は分かってるだけで四回断絶し入れ替わっています

私のニセモノに注意@tokaiama

天皇が好きで朝鮮人が大嫌いなみなさん。残念ながら天皇家を生み出した秦氏は朝鮮半島から来ました。朝鮮人の末裔と言っても間違いではありません。百済(馬韓)←扶余(満州)←秦(始皇帝)←弓月(キルギスタン)と遡ることもできます

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日本書紀に弓月君が1600年前に帰化したと書かれています→ 応神天皇14年に弓月君が百済から来朝 百二十県(18万)の民を率いての帰化 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93 これが秦氏の最初の渡来です 女真族が山陰地方に渡来した記録で、後に長州人になります

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秦氏の意味は「秦の始皇帝の子孫」ということです。ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 彼らは山陰、越地方に住み、継体は百済武寧王の王子という説もあります。琵琶湖岸から京都を作り、奈良に向かって大和王朝を成立させ、現在に至る天皇家の血筋となります

私のニセモノに注意@tokaiama

古代の道は海岸にあり、陸路が未整備だったので海路が主要でした。民族は海岸沿いに展開し、その交易範囲こそ「国」でした。この意味で「日本海国家」という概念を考える必要があります

私のニセモノに注意@tokaiama

日本人の祖先は、①先住民、縄文人の子孫 ②弥生人、中国蘇州呉国の子孫 ③騎馬民族、百済人の子孫 ④沿海州オロッコ人の子孫に区分することができます。1600年前から圧倒的な知力、武力を持った騎馬民族が日本の支配階級であり続けています。瀬戸内、大阪の人たちは大半が弥生人の子孫です。

私のニセモノに注意@tokaiama

有明海~瀬戸内~大阪紀州~静岡沿岸部の人たちは弥生人の子孫です。山陰福井京都の人たちは騎馬民族の子孫です。秋田津軽渡島の人たちはオロッコ人の混血、縄文人の子孫は主に東日本に混血しています。天皇家はもちろん騎馬民族、女真族の子孫です。彼らこそ日本の支配階級で今も同じです

私のニセモノに注意@tokaiama

山陰福井にいた秦氏は大和朝廷を作った後、「一所懸命」の思想の下、東山道から関東東北に向かい、その周辺で自分たちの領国領土を作ります。源平藤橘の武家で、最大の国が足利(平氏)で坂東武者として関東一円に展開、東北では藤原氏、関東に秦が多いのは、その子孫だからです。

私のニセモノに注意@tokaiama

天皇家御所が東京に移った本当の理由をご存じですか? それはニセモノ(大室寅之佑)の正体を事情知る公家達に曝露されないためです。謁見した英国外交官は「御簾の奥に真っ黒な大男がいた」と日記に書いた。祐宮は五尺で蹴鞠名人、それが明治天皇になると「馬上豊かな六尺の大男」になる。

私のニセモノに注意@tokaiama

私がなぜ天皇家のウソをしつこく曝露するのか?それは安倍政権によって徴兵制が復活し「天皇の赤子として命を捧げる社会」を復活させないためです。天皇は崇拝対象ではありません。我々と同じタダの人にすぎません。崇拝し、彼の体制を守らなければならないようでは北朝鮮社会が日本に復活してしまう

私のニセモノに注意@tokaiama

私は天皇家の子供達に「様」をつける人に不快感を抱きます。そんな特別扱いが天皇制の神格化を招き、再び「天皇のために死ぬ」妄想洗脳社会を復活させるのです。子供達にはちゃん付けでいい。同じ子供なのです。大人にも様付けする必要などありません。美智子さんでいいではありませんか?同じ人間だ

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@tiyokoo 天皇を最初に名乗ったのは天武天皇で推古、聖徳太子の時代には大君しかありません。天皇は道教における北斗の意味で中国に対抗した呼称です ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9 後醍醐以降は使われなくなり明治で復活しました 万世一系でないことを彼らも十分知っていた

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@ddnet1212 そうではない。権力者が自分たちを朝鮮由来の騎馬民族と認識したことは一度もない。だが袴、聖徳太子のズボンは騎馬特有の文化だ。武家は朝鮮由来の特徴を備えている。白丁という被差別階級を日本に持ち込み部落差別を作り出した。あなたの言うプロパガンダは存在しない

私のニセモノに注意@tokaiama

ズボンや和服には必然性がある。乗馬では必ず内股がこすれ損傷するのでズボンが必要になる。これが袴。乗馬しない民族にズボンはなく、稲作には裾からげの和服が適している。「刈る」文化が成立し、乗馬民族とは刃物の形が異なる。稲作と養鶏はセットで行うのが普通で、相応の文化が発達する

私のニセモノに注意@tokaiama

稲作養鶏を行ってきた民族は鶏肉と卵を好む。弥生人末裔は米と卵の文化。騎馬文化社会では狩りが盛んでイノシシ猟から養豚に進んだ。女真族は養豚農業を行った人たち。相応の民族的個性が出る。墳墓の形式も異なる。死者の供養も異なる。文献権力史よりも、こうした民俗学が重要である

私のニセモノに注意@tokaiama

それゆえ弥生人の子孫、瀬戸内大阪では卵鶏魚料理が盛ん。漁師が多い。騎馬民族だった山陰京都では豚肉料理が盛ん。狩猟を好む人が多い。弥生人は妻問婚文化なので女性が強くフリーセックス残る。騎馬族では「一所懸命思想」が残り、壮大な城の家を造りたがる。男系氏族の思想で男社会。社長も多い。

私のニセモノに注意@tokaiama

街並みを見ればルーツ民族が分かる。壮大な城のような家が多い地域は騎馬民族(秦氏)の子孫。小さな家が寄り集まってる地域は弥生人の子孫。女性達が伸びやかで強い。食べ物も違う。弥生人末裔は実質を優先させ、騎馬末裔は形式を優先させ、見栄体裁の社会になりやすい。男の権力を大切にする。

私のニセモノに注意@tokaiama

@ddnet1212 遠賀川式土器で規定される「弥生人」には共通する民族学的特徴があり、明らかに2500年前の非常に限られた時期に大量に移住した証拠が多く、稲作呉服などを伝えた。DNAにより蘇州由来と証明された。江上騎馬民族説も日本書紀弓月君移住に符号する裏付け多数。間違いでない

私のニセモノに注意@tokaiama

戦争の好きな民族性は食べ物や狩猟の文化に規定される。ユーラシア内陸草原地帯に住む騎馬民族(匈奴・スキタイ)などは狩猟文化の延長に戦争文化を形成した。平和な農耕生活を営んだレプチャ人末裔は稲作農業を軸に平和な社会を好んだ。日本で対峙した二つの民族子孫で、どちらが優勢かは明白だ

私のニセモノに注意@tokaiama

西日本はイノシシの生息地なので、養鶏農業のレプチャ族弥生人でも駆除から養豚に進む必然性があるが、ツングースほどの強力な狩猟文化はない。養豚が盛んなのは秦氏末裔の地域で、弥生人地域では明らかに養鶏が盛んである。両者は民族文化が異なるのだ。女性の強い社会では権力は好まれない

私のニセモノに注意@tokaiama

なお現在の養鶏養豚分布は、民族的特性よりも経済的特性、環境条件に左右されているので分布を見ても民族性との関連は分かりにくいが、地域における食習慣などから分かる。弥生人地域では明らかに養鶏産業依存食生活が多い。狩猟民族だった秦氏末裔地域では豚牛を食べることが多い。

私のニセモノに注意@tokaiama

大阪や瀬戸内のみなさん、あなた方は牛肉と鶏、卵料理のどちらを好みますか? 後者の人が大半でしょう。山陰福井のみなさん。あなた方は豚肉が好きではありませんか? 食生活は民俗学の非常に重要な柱です。食傾向と婚姻形態、女性の自由度が民族を規定するのです。

私のニセモノに注意@tokaiama

@chababaca 秦氏末裔は海岸沿いに展開していました。継体王の子孫たちは若狭から石川県方面です。織田庄には織田信長の先祖がいました。彼らは百済から奴隷制を持ち込み、先住民を奴隷化して収奪したため激しい抵抗運動が起きました。その中心地が勝山で思想的背景が真宗でした








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