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おはら野 野良日記/番外編 1の段 じゃりんこチエにも、小鉄の番外編があった。ならば私だって、書いていいやん


私あてに、手紙が届いた。よって番外編を作った。
きわめて私的な、わたくし事を吐露することになった。せっかく機会を与えて貰ったんだから最後までわたくしごとで、通す。

「二十年後のお山の椙の子ー彦根東高三年二組椙本延夫先生への手紙」(仮称)刊行趣意書


拝啓 春暖の候いよいよご清祥のことと存じます。
 さて、先頃、椙本延夫先生の奥様が、御夫君没後二十年を記念して、「ひとの生くるをー椙本延夫遺稿集」を再刊なさいました。彦根東高校卒業以来、三十年数年が過ぎようとしています。椙本先生が五十二歳で、御逝去されたのは千九八三年七月のことです。直後に開催された先生を偲ぶクラス会は参加者も極めて少なく、まことに寂しいものでした。以後、三年二組として出会う機会は、残念ながら途絶えています。紅顔の美少女、美青年も、五十歳の半ばに差し掛かり、頭髪に白いものも目立つ頃になりました。かつて先生は、二十代前半の我々に向かって、次のように語られたことがあります。

考えてみると、あの頃は大変でした。全国的情況があったとはいえ、あの卒業式はぼくの生涯忘れがたい事件です。なにしろ、ぼくの戦後民主主義への甘やかな信頼を、根底からつきくずされたんですから。あの頃、ぼくはこう言いましたね。「きみらはきみらの道を行け。ぼくはぼくの道を行く」と。ぼくは相変わらずです。きみらはどうなんでしょうね?もうすっかり大人になり切ってしまったんじゃないでしょうね。          (「お山の椙の子」創刊号)
 あの頃、大人達が作った価値に反抗していた私達は、すでに先生を超える年齢まで生きたことになります。この辺りで、来し方行く末について、思いを致す機会を共に持つこともあってよいのだはないか、そして、先生が若き日の私達に何を伝えようとされたのか、そして、それに対して、これまでの人生の中で、私達はどのように答えてきたのか、そろそろ先生に報告する時期ではないかと考えます。
 そこで、先生の遺稿集再刊にささやかなりとも、合わせる形で、「お山の椙の子」第二号を刊行したいと思います。趣旨にご賛同され、是非とも御協力賜りますようお願いします。       敬具

2006年3月吉日                    
発起人                                             
ひとくさり

だいたいがやな、あんな小さな小窓で、WEB日誌などと、キャッチコピーを作ったHP builderのIBMさん。
Heavy Smoker の私は字を書き出したら止まらないのだ。お習字だの、ペン習字などしゃらくさいのだ。字とは好き勝手、書くためにあるんだ。
仕方ないから、一気に文を載せるページを作った。
研究者仲間が「おい、明日飯食おうか、ええのう、どこでや、そやなこんどはロスにしょうか」など、馬鹿話をするために思いついたHTMLを本来の目的に戻すだけの話。

手紙 1

椙本さん、あなたへみんなが手紙を書くんだって。二度目だそうです。もうすっかりあなたの人生を通り越して生きています。

あなたはそのような私をどう見ています。あなたの答えは、いつもまず自分の意見、考え、感想をしゃべってみなさいと。口癖のように。

そうですね、振り返った年月は足の指まで使っても足らず、この先は、手のひらで充分。いつの間にか、隙間からこぼれ落ちた忘れ物がなんだったか判らないまでに消えています。

そんな折に届いた便りが、「手紙を書く会」からの趣意書。薄暗いハトヤで過ごした時間や教室、廊下、職員室で中身は忘れたが、話に熱中した空気はカプセルに包んで今もあります。あの頃、もう十二分に話ましたね。でも、話せなかった人もいるようですから聞いてやってください。

事件が起きたのは小学校の前をシュプレヒコールの人の波、教室の窓から身を乗り出して眺めていました。先生も別段止める様子もありませんでした。それを思い出したのは高校時代。60年安保のデモの隊列だったんですね。私には制止しなかった先生の行動のほうが不思議でした。

「ケネデイが死んだ!」と友達が飛び込んできたのは中学一年生のことです、衛星中継が一部始終を報道していたそうです。

物心がつくって、時の流れの中で、自分がいることに目覚めることなのかもしれません。そう自分がいる。その自分がいるって悲しいことなのかもしれませんね。ましてなにも知らずに自分がいる自分を発見したときはなおさらですね。

考えて見なさい、しゃべってみなさいと言う先生に、話の止まらない私の言葉を理解しようと耳を傾ける、そんな先生に私は話を加速する。

しゃべるとおおよそ私は何に動かされているのか、整理整頓ができますが、ずっと聴いている先生は、こうゆうことかと切り返してくる。合ってるかと。するとまた、私は話し出す。

ハトヤでは、中々進行しませんでしたね、先生の同僚の的外れの相槌や、折角、焦点が絞られてきたのに、ピンボケが入って。二人きりだと楽しかったです。

おう、もうじき二階の本で下敷きになりそうって、先生。長浜の自宅にお伺いしたときには、そんな話が楽しかったです。でも先生のお墓の前では、前を向きなさいと、、。

まだ昔話をする歳でもなかろうと。

だから、生きてます。

元気です。

67年の10月に、山崎君が羽田の橋で機動隊に殺されましたね。2年生の秋だった。家では、週間の毎日サンデー、文芸春秋、朝日新聞がありました。隅から隅まで読んでいました。これって外部の物?者。文芸春秋も、何度もそして毎月読んでいると、人はそれぞれ自分を持ち、自分の意見を持っていて、論戦、論陣を張っているって、判ってしまいます。

68年の秋は騒然としていました。時代は気分を伝える。気分じゃ人は動いてくれない。しごく当然ですが。伝える気分を整理すると、そこそこ纏まった意見というものになる、そうでしたよね、先生。(未稿)


手紙 2

まだや、秋雄君に手紙を送った。彼が私あてに送り返してくるだろう。何故って?
趣意書を、この時代にや手紙で送ってくれるのはありがたいし礼節を知る彼の人柄通りだ。だが草稿がwordに残っておろうに、メールに乗せればみんなが転送しあって埒も早いのだが、仕方ないから自分で起こした。で、思い出した。人の文章ほど入力しにくいものはない。自分で書くより3倍の時間がかかった。手紙はコピーしてあるが、それをここへ起こしたら、別文に跳んでいくのは自明だ。よって彼に根気と時間があれば、メールに起こしてくれるだろう。
それまで暫しまたれい。