野良日記(2011年)に戻る

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    本を読む、ということ。

  私にとって、本を読むということは、判り方が判るってことに近い。著者が感じたり理解した道筋をたどることによって、「ああそうか、そういう風に判ったのか。それなら私は、こう判った。」
  そうなんで、私が書くことは、著者の解説やあらすじを書くことにならない。それは読んでいただければ判ることで、必ず、私の要約とは違うだろう。

  今暫く、おそらく2010年の終わりまで、日付を入れずに書いていく。

 あ 上山春平   今西錦司  浅田彰   
 か 小泉武夫       
 さ 阪本寧男        
 た  
 な 中尾 佐助        
 は 橋本 治  服部伸六   原田幸雄   藤原新也  
 ま 森毅  
 や  
 ら・わん  

藤原新也ふじわらしんや  

インド放浪/藤原新也
朝日選書
インド放浪/藤原新也/朝日選書/1982
  その時、彼の情操は、《泣く》という形式にあてはまっただけであって、彼自身の苦痛の表現は、その主体とかけ離れてしまっているのではないだろうかと思った。
  それはこの荒涼とした地上で、人間という非力な肉体が、自然の道徳を受け継がねば生きてゆけねことを示す、いかにも非人間的な道徳なのであろう。p78
  彼は様式が持っているだけの大きさの自己表現をする。しかしそれ以外のもの、個人的情緒・・・それは弱いのである。それはつまり荒れ地の上にあって、生きて行かないのである。p79

  これは宗教の発生だ、「形式」あるいは「様式」の大きさに限って、個人の表現がある世界、個人的な情緒が生きて行かない、(断じて、生きて行けない、ではない)。自然の道徳の上に乗っかってしか人が生きて行かない、世界。


  中には、インドの地図というものを初めて見たというインド人がいて、僕の説明を混乱におとしいれたし、もう少しひどいのになると、もちろん彼は地図なるものを初めて見たのだが、まったく地図というものの概念がつかめないのだ。
 ”オイ、若イ者ヨ、一体コノ広大ナル大地ガ、イカデ、ソノヨウナ紙切レの一片ニ乗ッカル事ガ出来ヨウゾ”P86

  「概念」の成立を正しく指摘した一文。地図が紙切れにまで落とし籠められたことをなげいているだけでは、こうは書けない。
  例えば、10年ほど前に経験したこと。旧山東町・伊吹町の全域、山間部まで含めた、の2万5千分の1地図を貼り付けたコンパネは50枚ほどになった。それでようやく、家と小学校と通学路が子供たちの視界に入った。
  琵琶湖博物館のエントランスホールの床は、琵琶湖(滋賀県)から淀川河口までの地図になっている。
  私たちは、概念が先取りした世界に深く入り込んで、「この広大なる大地が、そのような紙切れに乗っかる」世界を忘れてはいないだろうか。

1972年に出版されたものの再版・選書版化
第一章:インド放浪    出版にあたって新たに書かれたもの  第二章:最初の旅から  朝日グラフの連載を集めたもの


チベット放浪/藤原新也
朝日選書
チベット放浪 /藤原新也 /朝日選書 /1982  こちらも「インド放浪」選書版同様、写真は載っていない。 ↓文庫版「西蔵放浪」藤原新也/朝日学芸文庫/1995には見ずらいが写真が載っている。

  地表は、あちこちでタイム・スリップしている。地球に住む様々な民族は、同時に今という時間を共有しているわけではない。人々は、それぞれ固有の地層年代の上に居る。
  この本の旅の主題となっているインド・チベットには、いまだ時折、中世、あるいはヴェーダの世界が垣間見えることがある。僕は日本の今から、その中世の今に向かってタイム・スリップし、20代の大半をその時間の中に費やした。この本は、その人間として退化した今を持った一日本青年が、過去に向かって人間としてより進歩的である彼らの今の海の中に自己を投入した、小さな記録である。(1982年 選書版への前書より)

  人は、同時代に生きているにしても、同じ時間の流れにいる訳ではない。彼は、それを、「固有の地層年代」と呼んだ。
  収奪し簒奪する文明を生みだした欧米の諸民族が、他の民族にこれほど冷淡な態度を示すのは、「同時代を生きているのなら、同じ時間的価値観=先進・後進を持つべきであるという『時間』すら価値だ」ということから来ているのではなかろうか。

東京漂流/藤原新也
情報出版センター
東京漂流 /藤原新也 /情報出版センター/1983

  『幻街道・シルクロード』、ヒト食えば、鐘がなるなり法隆寺
藤原新也の有名な写真である。
  しかし、この一点、つまり、「犬、ヒトを食らう」この写真だけは異なる。この、犬が人間を食らっている、という事実のあったことは、私の中で一向に古くならないばかりか、今日でも、自分の世界観を構築する潜在的な規矩となっている。−ー60年代、私たち日本人が髪振りみだし、ガムシャラに働いていた頃と異なって、ある程度の財を貯え、安定成長に入った70年代から80年代にかけて、日本人はずいぶんと身のまわりの掃除をするようになった。そこでは中産階級の健全な社会生活に不適合な汚物、異物、危険物とみなされるものは巧妙に封印され抹殺されて行く(この連載第3回目に取り上げた野犬殺戮はその端的な例である)。しかしながら、それは体内の病原菌を殺戮する作業であるとともに、健康を維持して行くために欠くことのできない益菌をも殺戮する作業でもあったように思う。社会はそのような意味で徐々に自己破壊に向かいつつあるように見える。p397
  ご承知のようにインドは仏教の起こった国である。P401
  自然に返してやるのだ。それはたとえ野犬の群れが食ったとしてもごく自然なことなのである。ヒトとは犬に食われるくらいに自由な生き物なのである。
  私はその時、れっきとした一つの宗教現場を写真に撮ったのだp402

  彼、藤原新也の「憎しみ」、憤りは、次のように向けられる。

  私はその時、れっきとした一つの宗教現場を写真に撮ったのだ。
  しかし、日本のグラフ・ジャーナリズムの中で、この本当の宗教写真の掲載は見合わされた。ちょうど1973年のことである。先にも述べたように、日本経済がひと息ついて、人々が身のまわりの掃除を始めたころだ。そういう風潮の中で、この写真は益菌でありながらベトナムの屍といっしょに汚物、異物として消毒された、と私は見る。p369

  この写真は、3度目でようやくその居場所を得ている。初回は「アサヒ・グラフ」で拒絶された。2回目は、サントリーのコマーシャル・フォト「夢街道」で。時の「NHKのシルクロード」などの、シルクロードブームにカウンターして、フォーカスに掲載しようとして拒絶された。

  私は、日本の20年を、時に、あの少年のころにグイと飲み込んだ憎しみのつばを書いたのかもしれない。ここには矛盾がある。
  「いつくしみ」は人を変えるが、「憎しみ」は変えない。

墓につばをかけるのか。
それとも花を盛るのか。

私は、書き続けた一年間、その間を揺れ動いた。p446

  彼、藤原新也は、20代をインド放浪で過ごした。そのとき、インドは「いつくしみ」のまなざしで彼を包んだはずだ。その事実を、日本で伝えようとした時、彼は拒絶された。その10数年間、揺れ動いた。


丸亀日記/藤原新也
朝日新聞社
丸亀日記 /藤原新也 /朝日新聞社 /1988
  初出:朝日新聞・1987年5月10日〜88年3月27日。大幅加筆。
  完全に日焼けしている。読んだあと陽にたっぷりあたる場所に放置されていたのだろう。ああ、あれはね、誰のあの本で、ウ〜ン、どこへ積んだかな、う〜ん、ここここ。書いてある。と、どういう訳か、置いた場所の記憶、表紙などで、中身が出てくる性質なので、本のタイトルすらうろ覚えが多い。何年かに本棚へ本を戻すときは、読み返して床に積んだ本や、読み終えて床に積んだ本を並べなおすことになる。その数年の間に、作者の並びや、この本の横はこれでしょ、なんて序列・組合せや順序が変わっているもんだ。

  本を見失うと、さあ、誰のどの本だったか、もうさっぱり、内容が思い出せない。それほど記憶が、表紙・置き場所頼り。つまり中身すら、そうなんだ。何ページに渡ってそらんじる人がいるそうだ、それは私からすると神業としか思えない能力である。
  そんなんで、私にとって「判る」とは、表紙を覚えている程度なので、それは置き場所を忘れても出てくる程度に画期的なことでもある。

  彼の挿絵を読んでいると、この人の空間には時間軸が無くって、時間がそのまま刺さっている。

  さて、彼の一文を挙げる。「刺のさとり」p62と、「刺のさとりについて」p67

  しかし、お前の全身から発散する怒りのエネルギーにあてられた俺は、再び俺の体内に眠る刺のズキズキとうずきはじめるのをかんじる。
  全身丸くなるも悟り。
  全身刺になるも悟り。
  おまえは、俺にそう言ってるのだろうか。p65「刺のさとり」

  つまり、ある風土の中においては、人間これ全身刺となり、多大な攻撃精神とエネルギーをもつことが悟れる者として崇められることもあるのだ。
  そのことは何を表しているのかいるかというと、これらの風土では”自然の教え”に代わって”人間の教え”が生活を営む上での規範になるということである。なぜなら砂漠という自然の中には人間生活を治めていく規範がないから、それを人間の手でやるより仕方ないのである。p68「刺のさとりについて」

  ここでは、彼、藤原新也は、読者からの質問に答える形で、「全身丸くなるも悟り。全身刺になるも悟り。」を解題する。彼に似合わず親切である。
  砂漠に生まれた古代の思想=宗教は、人間生活を治めていく規範を、事細かく説く。それはおのずと
、生きて行かない個人のあれこれを、暴れる身体のあれこれを、その攻撃性をも生活規範の中に組み入れる。あれほどブッシュが忌み嫌ったサダム・フセインの強圧・強権による抑え込みが、ある種の秩序を生みだしていたことを思い出す。そのように、砂漠に生まれたキリスト、マホメッドが説いた思想は、強固な「刺を顕わにする」宗教であったともいえよう。
  そのように見れば、ブッシュの刺と、フセインの刺と、いかほどの違いがあろうか。


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森毅もりつよし   
 
キノコの不思議
「大地の贈り物」を100%楽しむ法/森毅編
カッパサイエンス/1986
キノコの不思議 「大地の贈り物」を100%楽しむ法/森毅カッパサイエンス/1986
  キツネノエフデ:口絵B−2。キノコの図鑑は持っていない。食えるか食えないか、これを基準に名前を覚えるには、名前と同時に「食える」確信を持った人について歩かねばならない。図鑑で覚えても、食えなければ意味ないジャン。
  名人は時に冒険をする。食えるかもという願いが、確信に変わるそうだ。そんな時は近寄らないことだ。

1.おそろしいやつ
茸たちの叛乱中井英夫 /この奇なきのこ筑紫道夫 /きのこの匂いについて中井久夫 /腐蝕と生の夢斎藤栄 /森の不純物橋本治 /小人の家水木しげる /キノコとは何ぞや本郷次雄 /森の死神たち=毒キノコ横山和正
2.美しいやつ
へんなきのこ南伸坊 /なき茸安野光雅 /キノコ ウオッチング タッチング滝田栄 /茸とクソの戦争種村季弘 /キノコはUFOなのだ赤塚不二夫 /まともでないキノコ岸田秀 /死体を探知するキノコ相良直彦 /アリの目で眺める世界井沢正名
3.はて、面妖なやつ
ふたつのきのこ中沢新一 /きのこと帽子浅葉克己 /キノコと赤ん坊大室幹雄 /ねんきん生活太田次郎 /きのこを食うきのこ荻原博光 /人の心に潜む冬虫夏草白土三平 /い世界の構造物=冬虫夏草清水大典
4.おいしいやつ
誰がキノコを食べるのか養老孟司 /「キノコは嫌いよ」小宮山勝司 /仙人が食ったキノコ山崎幹夫 /キノコ名人の死小島信夫 /絶品!キノコ料理安部琢哉 /妖蕈譚手塚治

と、まあ私の好きな面々が顔を並べていることもあって気に入っている。
 

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 橋本 治はしもと おさむ 
 
戦中派不戦日記 昭和20年
/山田風太郎 /講談社文庫
解説ー橋本治 『戦中派不戦日記 昭和20年/山田風太郎 /講談社文庫/1985』
  文庫化された時の『解説』文である。橋本治はそれを独立した「橋本治の書籍」にしてしまった。

40年前に、現代青年はいたのである。p534
”焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰をおろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵が吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで「ねえ、、、また、きっといいこともあるよ。、、、、」と、呟いたのが聞こえた”p540

  彼の解説の核心部分は別にある。この解説を読むためだけに、この文庫本を手にとる値打ちはある。山田風太郎が好きな私からのおすすめ。彼、橋本治はこの僅か数ページの文章を、ぼうだいといわれる彼の単行本に加えるだろう。

完本チャンバラ時代劇講座
/橋本治/徳間書店
完本チャンバラ時代劇講座/橋本治/徳間書店/1986
  「歌舞伎」のその後、といった本。「江戸にフランス革命を!」と「大江戸歌舞伎はこんなもの」と併せて読む本。初出は、「マキノ雅裕監修・浦谷年良編著・ちゃんばらグラフティー」に収録された『チャンバラ時代劇講座』(あとがき)。

  この三冊は、読んでも判らない、橋本ワールドをまるごと楽しみ、時に「アッハハ」と一緒に笑う本。

  それから、彼の「桃尻娘」シリーズを全部読むと、彼の全部が判り、その後の彼も判る。
桃尻娘/1978 その後の仁義なき桃尻娘/1983 帰ってきた桃尻娘/1984 桃尻娘プロポーズ大作戦/1985
無花果少年と瓜売小僧/1985 無花果小僧と桃尻娘/1988  以上6冊と  雨の温州蜜柑姫/1990
  私は、『雨の温州蜜柑姫』が一番おもしろかった。
  私にとっては、文体が全て、文体によって考えを伝えることができると教えてくれた作家。
 

江戸にフランス革命を!
/橋本治/青土社/1989
 江戸にフランス革命を!/橋本治/青土社/1989

ぬえの名前/橋本治
岩波書店/1993
 ぬえの名前/橋本治/岩波書店/1993
  初出:『よむ』岩波書店、『芸術新潮』新潮社、『東方』?

宗教なんかこわくない!
/橋本治/マドラ出版/1995
 
宗教なんかこわくない!/橋本治/マドラ出版/1995 
 大江戸歌舞伎はこんなもの/橋本治/筑摩書房/2001
  このような本を読むときは、幸せなときである。「わかられないこと」を前提にしたような、この本はそのまま橋本治ワールドへ連れて行ってくれる。
  近代の意味を、江戸時代に遊ぶことで見つけ出した、そう言っているみたいだ。しかし、立ち止ってしまう。周りはと見回すと、そうだよなあ、とこの先にインスピレーションの湧く人がいない。なぜってこの本は、私にとって踏み台だから、この先で遊びたいから。
  面白い本です。

  多産な作家なので、index代わりに
   雑誌に書いて、大幅加筆単行本化、文庫本の解説文。
橋本治 インデックス unofficially pagehttp://www.digital-momonga.jp/hashimoto/hashimoto_index.html 
橋本治愛読エンサイクロペディア(50音順)→http://www.geocities.jp/osamudokusha/index.html

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中尾 佐助なかお さすけ   

栽培植物と農耕の起源/中尾佐助
岩波新書/1966
 
栽培植物と農耕の起源/中尾佐助
  今、この人の話を、農学・農業の分野の方面から聞くことは少ない。私には、なにかと立ち戻るための大事な一冊になっている。かつての京大学派の一人、大阪府立大農学部の草分け。また大阪市立大とは、原研などを通じて繋がりがある。
  

料理の起源/中尾佐助
NHKブックス/1972
料理の起源/中尾佐助/NHKブックス/1972 

農業起源をたずねる旅 ニジェールからナイルへ/中尾佐助
/岩波書店 同時代ライブラリー/1993
農業起源をたずねる旅 ニジェールからナイルへ/中尾佐助/岩波書店 同時代ライブラリー/1993
                          「ニジェールからナイルへー農業起源の旅」/講談社/1969の改題
 

花と木の文化史/中尾佐助
/岩波新書/1986 
花と木の文化史/中尾佐助/岩波新書/1986 

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上山春平   

続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流
/中公新書/1976
 
続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流/上山春平・佐々木高明・中尾佐助/中公新書/1976

  照葉樹林文化/上山春平・中尾佐助・吉良竜夫・岡崎敬・岩田慶治/中公新書/1969

 

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今西錦司いまにしぎんじ   

ダーウィン論 土着思想からのレジスタンス/今西錦司
中公新書/1977
ダーウィン論 土着思想からのレジスタンス/今西錦司/中公新書/1977
  マルクス・ダーウィン・フロイトの引退を願って久しい時間が過ぎた。その中で、この今西進化論はダーウィンのエピゴーネンから忌み嫌われている。かつてのエピゴーネンがダーウィンを賛美したと同じように。

  「すべての生き物は、神の手をかりずに、自然に変化したと考える。このために、彼(ダーウィン)は二つの問題をかかえこまねばならなかった。その一つは、神の手をかりないでも生物は、それ自身で変わりうるということの証明である。二番目の問題は、生物がそれ自身で変わるというが、それはどのようにして変わるのかという、いわば変化のプロセスを、問題にしているのであって、進化論というのはもっぱらこのプロセスと結びついたセオリーなのである。]p14
 

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阪本寧男さかもと さだお   
 
モチの文化誌  日本人のハレの食生活/阪本寧男
/中公新書/1989
モチの文化誌  日本人のハレの食生活/阪本寧男/中公新書/1989

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小泉武夫こいずみたけお  

発酵 ミクロの巨人たちの神秘/小泉武夫
中公新書/1989 
発酵 ミクロの巨人たちの神秘/小泉武夫/中公新書/1989
  人類は農耕を始めると同時に、発酵食品を発明した。農耕の起源とともに、発酵加工の発達史と世界の発酵食品の様々を知る上で、絶好の手引書になる。
  

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服部伸六   

カルタゴ 消えた商人の帝国/
服部伸六/現代教養文庫/1987
 カルタゴ 消えた商人の帝国 /服部伸六 /現代教養文庫・社会思想社 /1987
T カルタゴへの道
U 海洋帝国の誕生
V カルタゴの大航海時代
W ローマとの攻防
X カルタゴの660年
Z フェニコ=カルタゴの世界
[ カルタゴの教訓  ●国境のない宗教文化 ●人種偏見のよりどころ ●セム属という分け方への疑問 ●フェニキア人の末裔 ●日本人は魚くさい ●差別のない世界へ向けて

  [章のみに、小見出しを載せた。服部伸六:詩人・評論家、1965〜1978年、アフリカ、中東、フランス等に13年間滞在。主に大使館勤務。(奥付:著者略歴から)

  欧米の民主主義、あるいは近代主義を量るのに、ギリシャ・ローマの民主主義を知るだけでは不十分だろう。ローマとの戦争に敗れ、チェニジアを新しい覇者に譲り渡したカルタゴ(フェニキア人)という都市国家の戦争観と民主主義を知っておいて損はない。あたかも、チャーチルがその地を訪れたように。

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原田幸雄はらだゆきお  
 
キノコとカビの生物学 変幻自在の微生物 /原田幸雄
中公新書/1993
キノコとカビの生物学 変幻自在の微生物 /原田幸雄/中公新書/1993
第3章 いもち病ー稲作の一大脅威
第4章 毒にも薬のもーカビの多芸 1、−−麦角の功罪

  おおざっぱには、この二つを知りたくて買い求めた。

浅田彰あさだあきら  

科学的方法とは何か
−浅田彰・黒田末寿
・佐和隆光・長野敬
・山口昌哉著/中公新書/1986
科学的方法とは何か−浅田彰・黒田末寿・佐和隆光・長野敬・山口昌哉著/中公新書/1986 

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