科学的方法とは何か /浅田彰・黒田末寿・佐和隆光・長野敬・山口昌哉 /1986 /中公新書
随分古い本になる。
ターニング・ポイント /フリッチョフ・カプラ /訳: 吉福伸逸・田中三彦・上野圭一・菅靖彦 /1984 /工作舎
こちらも古い。パラダイム・シフト ニューサイエンス デカルト=ニュートン思想の限界 などなど当時の私の問題意識は今と違う。「ターニング・ポイントに書かれた指摘くらいは、激しい論争はあっても概ね学者・科学者、会社経営者に受け入れられていくだろうと思っていた。内容が多岐に渡るため、各分野、各カテゴリーごとに論争がおこり、いつのまにか自明のことになると思っていた。
カプラに対する批判は、前作のタオイズムについて、この本ではホーイズム(全包含的)、全体主義と取るべきではない、についての批判になるだろうな、とは思っていた。
私は、この1986年頃から現在まで、とりわけ1995年以降本を読まなくなったし、「勝手にすれば!全部判っているじゃん!」で済ましても大丈夫、と思っていた。
ところがどうだろう、3.11以降、日本が世界が変わったというのに、まあそれ故にニュートン的世界観で暮らすペンタゴンの無能ぶりが顕わになったというのに、彼らの終焉を告げる学者・科学者が、相変わらず少数派なのに「驚いちまった、あきれ返っている。」
時代が変わる時、変わった時、従来通り、従前の思考・方法で解決していこうという勢力が一時的であれ守旧するのは歴史の事実である。しかし、すでに判ってしまった人々がいる。「ママは原発いりません」勢力である。彼ら、彼女たちは新しい言葉を紡ぎだしている。
ならば、新しい思想・新しい言葉で応えねばならない。守旧派が古い言葉、古い手法で問題解決の糸口を探っている。彼らへの反論・反撃は新しい言葉でなされなければならない。
この「ターニング・ポイント」、そして前作「タオ自然学」の訳を担当した田中三彦氏に改めて敬意を表する。
1986年からこの25年間、この科学的方法を巡る論争が、ダボス会議に現れているように、主に政界・経済界を中心になされてきた。また私もそこを基軸に展開すれば自ずと新しい道は出来てくると思っていた。しかし残念ながら、日本においては学者は学者のまま。産学共同から、産・官・学共同=ペンタゴンの牙城へと巨大化していた。そこから利権を求めた政治家たちは、民主党主導の事業仕訳=利権の付け替え、再分配に終始してしまったし、今もまたそこから出ない。
もう一つ。昨年の「里山イニシアチブ」はどこへ行ったんでしょ。総括もできないまま、「里山」を自爆させたお気楽ニッポン!どこへ行く。世界でもっとも「核拡散」、垂れ流しを続けるニッポン、さてどこへ行く。フクシマに隠れてしまった感があるが、東北の地震・津波による惨状を思うに、科学者・学者は、とりわけ、行政に有識者として参加した職業学者さんたち、己の知見の無能ぶりを猛省せねば、、、臆面もなく「私は無傷だ」顔で、「復興会議」に出るだけでは駄目よ。
|