園長の野良日記     2012年 3月   ファイル 2012

home おはら野の四季 おはら野 農園 野良日記 遊びたい おはら野ママ link
 リンクがうまく貼れていません。下のページ(ファイル)に行って、戻れなくなったら、ブラウザかHomeから戻ってください。
     
   原発はいらない! 反戦・反核・反原発・反貧困・反差別  ←おはら野農園の取り組み 2011.3.11 

      2011年5月     若狭の海 /姫野洋三&おじさんアンサンブル  
      2010年11月     206cc的ツアー、R303、R417  R303~徳山ダム 紅葉を愛でに、ドライブ
      2010年9月      藤原新也の公式サイト→ 「インド放浪」以来、それなりに読んでいる藤原新也のインターネット上のURL
                 2010年1月~     新グラウンドの候補地を市場・夫馬地先に決定されたことに反対します
     
           10 February, 2012      2010年1月       1995年1月17日午前5時46分阪神淡路大震災
     
                 2009年9月 6日   浜名湖サーキットツアー       編集中
                 2008年9月30日   206cc的旅行              淡路島・鳴門、瀬戸大橋、牛窓  サツマイモ・ラッキョ
                 2007年
        沖縄にひめゆりの塔は無かった  2006年   ごうや

  たつ園長は野良日記を綴るけど、毎日綴るとはならない。龍 隆たつたかしは
おはら野農園の園長だが、すぐ畑仕事を投げ出してしまう。その投げ出し、はみ
出た日暮しを野良日記に綴っている。
  つまりそんな読者の期待に応えようとしている訳だ。ペンネームと間違えられ
る本名とはそういうものだ。

  
2010年10月。本を読む、というページを作ります。  →本を読む 
2012年 1月 2月 3月 4月 5月 6月7月 8月 9月 10月 11月 12月 当月
2011年 1月 2月 3月  4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 
2010年 1月 2月 3月  4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2009年 1月 / / /         5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2008年        3月                    9月 10月 11月 12月
2007年 1月 2月 3月 4月 5月 /
2006年 1月 2月 3月 4月 5月 6月     8月    10月 11月 12月

  リンクがうまく貼れていません。戻れなくなったらHomeから戻ってください。 
<<前のページ | 次のページ>>
2012年3月29日(木)
随分と経った
  滋賀・マキノの山はまだ雪が残っている。ここで福島の子どもたちが春のキャンプをしている。夏休みのキャンプには一杯野菜を届けたいと思って見学に行ってきた。

  なんと、大阪から、大阪名物タコ焼きを食べてもらうんだ、と道具一式を積んでタコ焼き屋さんが始まった。旨いぞ。




と思ったらこっちではモチつきが始まった。みんなが掛け声、子どもらが交代でペッタラコ、豪勢なものだ。ええがな、ええがな。










  民宿一ニ三さんの前の道、メタセコイア並木。この先にマキノピックランドがある。

  とここまで書いて、おはら野農園の取り組み

    原発はいらない! 反戦・反核・反原発・反貧困・反差別
 
が全然更新できない言い訳を考えている。
2012年3月26日(月)
この季節、読み返したくなる
桜の森の満開の下
桜の森の満開の下/坂口安吾/講談社文芸文庫/1989所収(初出「肉体」1号/1947)
      -坂口安吾選集第6巻/講談社(全12巻)1982底本
桜の森の満開の下:
  桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。・・・/桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、・・・/能にも、・・・桜の林の満開の下へ来かかり見渡す花びらの陰に・・・/桜の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。
  花の季節になると、旅人はみんな森の花の下では気が変になりました。・・・/それで鈴鹿峠の桜の森の花の下を通過した途端に・・・

       このように物語ははじまる・・・・

  桜の森の満開の下です。

   ・・・ラスト ・・・・

  そこは桜の森のちょうどまんなかあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に座っていました。いつまでもそこに座っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
  桜の森の満開の下の秘密は誰にも分かりません。あるいは「孤独」とうものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でもありました。・・・・
 

 坂口安吾の特有の女性観はさておいて読み進めると、桜、林、森、花、満開、下この繰り返しが時の流れを止め、偏在を一点に押しこめていく。

そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。

 彼固有の送り仮名と、かな漢字交りが、戦中・戦後の呼吸、戦前にかいま見せたものを見せてくれる。ワープロ変換はこの文体に合わない。また、巻末の解説・年譜は私の感じるところではない。別だろ、と言いたい。


  20120322 彦根城・山崎郭 桜のつぼみ
2012年3月22日(金)
我が母校
  三年間過ごせば思い出も残る。当時のままの校舎と図書館(2階から渡り廊下でつながっている)ここで、終日本を読んでた。図書館には旧制中学からの本があったから当時で言えば大人が読む本が並んでた。カウンターに座ってた人が若い叔母だったから、あのそのなにしてようとフリーパスだった。

  あるところ大人扱いされたが、世の中の気分が反映して、卒業式が近付くとそうでもなく、「自主性」や「主体性」に「高校生らしさ」が求められた。ただ、個々の人格がぶつかるってとこが今の管理社会と違うところかな。教師だって「戦後の気分」そのものだった。


  思い出の体育館。この楽屋裏に体育教官室があった。髪が長いって連れ込まれた。


  彦根城へ梅を眺めに出かけた。城内にあるこの高校は否応なく目にとまってしまうのだ。
2012年3月21日(木)
ご近所のシュールな畑
  ご近所にシュールさんが住んでる。意表を突く。畑に葉ボタンが植わっていた。正月用の葉ボタンがまだ見事だったんだろう、畑にポイポイが忍びなかったと見える。


  残雪の伊吹山。山はまだ萌えていないが春の風情だ。
2012年3月17日(土)
戦後詩史論/吉本隆明/大和書房/1978
戦後詩史論/吉本隆明/大和書房/1978
  吉本隆明が死んだ。個人的な回想になろう。

言語にとって美とはなにかⅠ・Ⅱ/吉本隆明/勁草書房/1965
共同幻想論/吉本隆明/河出書房新社/1968
マス・イメージ論/吉本隆明/福武書店/1984

  他に読んだ本があるのか記憶にない。今更読み返す気にならない。手元にある本を並べた。「情況」という雑誌があった。情況・叛旗派とういうブントの一派がいた。彼らとの真昼間の公園で竹竿を振り回しての内ゲバが最後になった。「言語にとって美とは何か」は考えることの多い本だった。「共同幻想論」は思想史やアジア的な生活通史を読み解くのには役立ちそうだったし、詩的な情緒を語るにはもってこいの本だった。でも「共同幻想論」が政治思想、まして運動論の基軸・基点になるとは到底思えなかった。

  勘違いしてる人多いけど、新左翼と呼ばれる一群は1967年の三派系(ブント・中核・青解)全学連結成でほぼ終焉している。1968年の医学部処分事件から急展開した東大全共闘運動も言ってみれば医学部の闘争とは別の話だと思う。
  日大・東大の全共闘運動(他の大学のそれも)安田城攻防で終焉してるしその年の1969年全国全共闘結成なんぞは秋の闘争の旗揚げ式のようなものだった。
  1968年の秋から翌年にかけて関西ブントは、赤軍派と関西ブントに割れてたし、赤軍派は大菩薩峠で大量の逮捕者を出して部隊の再編成を強いられていた。
  情況・叛旗派との内ゲバの頃には、荒派との論争は始まってた。どうも早稲田の人は、革マルとの論争の後遺症かして観念的になってヘーゲルなんぞを平気でもちだして、私の頭の範疇を超えた。
  荒派との内ゲバの前に、赤軍派は京浜共闘と野合してまって連合赤軍を作った。そうこうしてると赤軍にいかなかった関西派が東京に集まると言う。武闘派とは生があわん私はそこでやめた。

  もっとも闘った者がもっとも傷付いた。そうとだけ言っておきたい。渦中に入ることにためらいを覚え周縁をグルグル回っていたものは、「会社社会」に身を変転させた。きっと居心地がよかったろう。
  今のマスメディアとりわけ新聞・TVの報道姿勢は当時と変わっていないし、「現象」に対して後追い的なコメントに、しかもコメンテーターという外部に依存して、結果しか報道しない。深追いするほどの体力も知力も放棄した集団であることに変わりはない。

  幸いなことに、共同幻想論で吉本隆明が述べたことは、今は多くの学者・研究者が別のアプローチで詳細を語っている。かといって運動の中で、その重大性を表明した吉本隆明の先駆性は輝きを失ってはいない。
  現在にこだわる限り未来は不可視である。確かな未来を求める時には、未来予測を高めるときには現状肯定の声が忍び込んでいると思ったほうが良い。
2012年3月12日(月)
「わからない」という方法
「わからない」という方法/橋本治/集英社新書/2001
「わからない」とい便利な方法はない
「便利な正解の時代」が終わってしまったら、「わからない」という前提に立って自分なりの方法を模索するしかない・・・
・・・・・「人の言う方法に頼るべき時代は終わった」と言ってるだけなのである p226

  とっても分かる。

2012年3月12日(月)
ニャロメ!が続く。ニャロメ!  学習できない脳ミソ。痒くなってきた。
  雪だ、雪の朝。毎年だが、3月に何度か雪の日が来る。今日は奈良・二月堂のお水取り。お水とりは何日もあるから今日だけが深夜に松明が走りまわるのではない。
  関西ではこのお水取りが終わるまで、本格の春はこない、とされている。


  ニャロメ!はこれではない。雪のことではない。G9だ。
  カメラから画像を取り込む。これをパソコン操作で行う。ここまでできるようになった。
  だがしかし、カメラのカードには画像が残ったままだ。

  A530を使う時は、転送後に「カードの全画像を自動で消去する」設定ができた。この機能をG9の転送ウイザードでどう設定すればいいのか?ニャロメ!だ。


  あと課題は二点。その1:撮影直後に表示される撮影内容の確認表示(2秒)時間がどうにも長い。カードの初期化(物理フォーマット)をして、気持ちが変わって、早く終わるようになったかなってとこ。

  その2:画素数が大きなって、画像ファイルサイズが大きくなった。平気で2Mを超えることがある。HPにアップすると、サーバーの容量が心配だ。HPBで「サイズを小さくしてアップするか」・「サイズを小さくして画像を保存するか」、どっちも手間が増える。
  そう単にものぐさなだけか。

2012年3月11日(日)
咲いたで水仙
  この時期、花が中々ない。ハウスの中で水仙が咲いているってとってもいい。

  オオイヌノフグリ、ハコベ、ヒメオドリコソウなど外で咲き始めたけど、花が小さい。わあっと咲きだすまでまだ間がある。


  イチゴの花も咲いてるけど、虫がいないから実がとまらない。















   雪解けがすすむ伊吹山。今夜から雪か雨。陽射しは春のようだけど北風が冷たい。
   春まで一進一退。
2012年3月9日(金)
The Brothers Four - Seven Daffodils 
  柄を取り換えた。

  890円、ホームセンターに行けば一本買える値段だ。折れたので短くして使っていたが、この10センチほどが辛い。腰を曲げて仕事してた。もう少し背筋を伸ばしたい。力を入れる鍬じゃあないから、いいけど。もう5センチ欲しいけど、時代が進んだ、身の丈が伸びたんだから仕方ないつう。
  鍬はばあさんの形見。この鍬を杖にして、あとホレ、この少しがでけんと悔しがってた晩年を思い出す。
   Seven Daffodils
I may not have mansion, I haven't any land
Not even a paper dollar to crinkle in my hands
But I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils

I do not have a fortune to buy you pretty things
But I can weave you moonbeams for necklaces and rings
And I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils

Oh seven golden daffodils all shining in the sun
To light our way to evening when our day is done
And I will give music and a crust of bread
And a pillow of piny boughs to rest your head     
A pillow of piny boughs to rest your head
  

2012年3月8日(木)
学習できない脳ミソ
  ワキワキする猫♀。こちらはイライラしてる。できない、書いていない。

  「初期値は、ピクチャーかマイピクチャーにフォルダを作る」と書いてあるマニュアル。じゃあどこから、フォルダの場所を変更するのか書いてない。困った時のインターネット、ドンドン。「キャノンデジタルカメラ フォルダを変更する」、簡単に出てくるじゃあないか。G9の画像取り込みウイザードがA530と違ってるばかりに、「設定」ボタンの位置もアイコンも違う。だからマニュアルは読まない。つまりキャノンはカメラの使い方ではなく、パソコンの使い方の範疇だと言いたげだ。そりゃあパソコンが違えば設定の仕方が変わっていく、いちいち対応してられるかってことだろうが。

  できたから良しとするが、頭が破裂しそうに腹立った?頭立った?
2012年3月7日(水)
脳ミソには学習機能があるという
  あらま!A530と、G9フォルダが違う!混在さすことがでけんのかなあ?

  それは置いといて、宿年の願いがかなった。G9をゲット、重くなったがそれはなんとか我慢をしよう。A530さんお疲れさんでした。今日から交代交代で使うからね。

  保護カバーがちぎれてゴミが入った、USBケーブルから画像を取り込めなくなった。小さな花が色飛びして(気になるようになった)いまいち気分が良くない。

  そんなんで次を探していた。大きく重いのは嫌い、腰ポシェットに入れて持ち歩きたい。ファインダーがないと望遠が不便、飛ぶ鳥をつかめない。真夏の太陽の下では液晶が見えない。マクロをもっと究めたい。リチウムは嫌い、単三電池を使いたい。などの注文を付けてると、ドンドン、ファインダー付の機種が無くなっていく。

  重い、リチウム、これに眼をつむってG9にした。最大の敵はキャノン!ここしかないのかカメラは。1眼レフ、これは選択肢に入らない。私はカメラマンではない。カメラバックに三脚はあかん、畑で気楽にとりたい。

  学習機能たって、機械に自分を合わすことではないはずだ。したいことに機械があわすべきだ。機械の選択。

  A530が壊れたら、すでに半壊、でもIME2007の変換機能よりずっと良い、A720ISの中古を買う。5000円以下で手に入りそうだ。
2012年3月5日(月)
クモ

  モニターにクモがいた。暖かいのだろう、どこぞから這い出てきた。お断りする理由がない、カメラだけ向けた。
 「近代文明と呼ばれる巨大な機械を作るために働いた個々人は、機械的習慣の奴隷となり、彼らの創造した怪物に冷酷に支配されていった」岡倉天心
  「機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり、機心胸中に存すれば則ち純白備わらず」荘子。岡倉天心と道教p184
  機械に人の心があるわけじゃない。人の心のありようが機械に反映される。そしたら、反映された心に、人の心が振りまわされる。まったくそのとおりだ。
  荘子の言う「機械」は現代の機械とは意味は違う。機会、機微、機序などの機だろう。械は、戒に木扁がついた「戒」によってつくり出され、動く物。動物ではない。しかし、人の心からみれば意味は通じる。

解剖学教室へようこそ/養老孟司/筑摩書房/1993 p69

解剖学教室へようこそ/養老孟司/筑摩書房/1993
  図は、ビドローの図による内臓を取り除いた、おなかの中。これが腹腔である。p69

  ハエがとまっているのが分かるだろうか。写真ではないのである。描いているのだ、そして印刷しているから誰かが原版を起こしている。だから、わざとハエを止まらせているのだ。現代の感覚だと、ハエを消すだろう、フォトショップで。モニターにクモがいていいじゃないか。
  アッ!これだけがいいたかったのだ。荘子、岡倉天心、福永光司、養老孟司たちには迷惑だったか、クモスケ、ごまのはえのたぐいかもしれないなあ私。

2012年3月5日(月)
IH
C21

 2月29日撮影
  IHのC21じつはこれ、急きょIHになった理由であった。
  リフォームにあたって、オール電化はいかん、IHの電磁波はいかん、ガスで行こうと、あとは見積もりプランの細部を手直ししていた。
  あれこれ忙しく立ちふるまっていた連れ合いがガスコンロで煮物を空焚きして、鍋を焦がしてしまった。

  風呂・トイレに手すりを一杯付け、這って入って中で着替えが出来るようにスペースをとってと、思いつく限りの老後対策をしていた。そこへ空焚き事件を起こした訳だ。それで、ガスコンロからIHに変更された。オール電化はいかん、IHはいかんはどこへいってもた?

  そんなことで3年が経った数日前、私があれやってこれやってとしてたうちに、IHでやかんを空焚きしてしまった。その時の表示が「C21」。過熱防止装置が働いたのだ。
  空焚きしたり、無駄に電気を使ってはいかんとタイマー2分を励行してた私が最近、しなくなってしてしまった不始末だった。再びタイマー2分を使うようになった。

  台所はIH、風呂はガス、暖房は石油。冷房は無い、夏、熱帯夜最低気温が25℃を下回らないなんてことは一夏に一回あるかないかの準高原地帯なんである。
2012年3月4日(日)
米はどこから来たのか

今回、取り上げるのは「米」の話ではない
米はどこから来たのか/李家正文りのいえまさふみ/木耳社/1986
  黄河は、北は天津、南は山東半島の北側、時に揚子江まで、古代から川筋を変えてきた。唐宋代まで天津は海の中だった。→山東半島から島伝いに渤海を渡り遼東半島に着き朝鮮半島の西側を伝って日本列島・九州に至る航海ルートが古代の交通路だった(遣隋使)。遣唐使は九州から黄海を横切り呉・山東半島の南に直接いく経路を取った。それは朝鮮半島の政治情勢と、その影響をもろに受けた日本の事情と見てよい。

  稲作はアッサム地方を起源として各地に伝播したとするより、雲南地方から各地に伝播した。古代に国境はなかった。


呉、揚子江流域の文化に着目している。私もそう思う。魏・北京(北の文化)は多分に遊牧民族の抗争文化(収奪・略奪、時に民族の殲滅線)のため、支配・被支配を軸に文化が成立している。
  蜀・四川省は、西のチベット、南の雲南(東南アジア)から流れ出した文化に押し出されるように中原に向かう。
  呉・長江下流域を揚子江と言う(上流域では長江、かつ長江が全流域を表す語)は稲作を含め、中国の穀倉地帯。日本においては、隋・唐代まで、この呉と呼ばれる地域との交流が強く、また半島・新羅はその途中にあった。

  稲作を含め、文化は半島を通じて何度も押し寄せ、また南から琉球などを経て来た文化もある。物や技術はそれだけがきたのではなく、人と共にやってきた。
  島・列島の日本は、その先に人はおしだされないので、クレオール文化となっている。またピジン語の発達した地域でもある。


  李家正文氏の言説を追った訳ではない。借りた。
  
2012年3月1日(木)
3月だ!春だ
  したくないオーラがもっとも漂う「確定申告」、これをどんなに精確に仕上げても黒字は増えない。赤字は減らない。金銭感覚ともっとも似合わない現実を目の当たりにするからだろう。
  商売人は、利益が出ているかどうかを見る。資産家・投資家は資産が増えたかどうか見る。市民は貯金の増減を見る。こうして勝負は決まる。ロスチャイルドはこのゲーム賭博に数多く参加することを望んでいる。
  食欲・性欲・賭博・酒などのめくるめく快感から人は逃れられない。

  近江商人の発明したもの。複式簿記とリクルート。